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外資系経理マンのページ

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国境の駅

あさ、起きるとすぐにカーテンを開けた。うっすらともやのようなものがかかっている。平原のようなところを列車は進んでいる。ときどき、パオとか、放牧された馬や牛の姿をみることができる。人影はみることができなかった。

いまは朝の6時。国境の駅、満州里まで、時刻表のとおりならば、あと30分だ。

この国境の手続きで2ム3時間かかる。さきに言ったとおり、食堂車をロシア製に換えるのもそうだし、一番、難儀なのは、車輪の交換だ。これは、ソ連と中国の線路幅が異なることによる作業だ。もちろん、入国、出国手続きもあるし、両替えもしなくてはならない。というのも、中国の貨幣、人民元は海外に持ち出せないからだ。そしてこのころは、いまはなくなった、外国人専用の外貨兌換券という特殊な紙幣を使っていて、持ち帰っても、日本では両替えできない(今は一部の銀行での両替は可能)。

そして、定刻より45分遅れで満州里駅につく。

車掌は指示があるまで部屋で待てという。何分まっただろうか、中国の係官がパスポートを集めにくる。なんとなく不安な気持ちになる。なぜか?パスポートが、中ソ国境という、国際政治の駆け引きの場のような駅で持っていかれるわけだ。これが、不安でなくてなんであろう。そして、おりろとの指示。

駅舎に入る。そう、人民元を両替しなくてはならない。両替は、日本円を人民元に両替したときにもらった計算書をいっしょに提出して両替をしてもらう。いくら両替したかは覚えていないが、日本円がかえってきた。
売店はあったが、免税店という国際空港にあるものは期待していなかったから、さほどの落胆はなかった。他の乗客は、たばこを買い求めていた。
それでも1時間ほど、駅にいて、列車にもどった。いよいよ国境越えだ。

列車はこれまでにないくらい、ゆっくりとした速度で進む。このあたりは、国境の緩衝地帯。ダダッダダンと鉄路を進む。あとで知ったが。このとき、中華人民共和国の文字がはいったゲートをくぐったらしい。そして、ほどなくして、「CCCP」の大きな看板が車窓から目にはいってくる。

CCCPは、オリンピックでよくソ連の選手が胸につけていたマークだが。この文字はロシア文字であって、CはS。PはRの意味。なんの略かは忘れたが、Cのひとつはソビエト。もうひとつはソシアリストのCだったような気がするが記憶は定かではない。

30分ほど、のろのろすすんで、停車する。まわりに駅舎は見当たらないが、列車は完全に停車した。しばらくすると、こつこつと誰かが歩いてくる。コンパートメントから、ひょいっと顔をだしてみると、ロシア人の兵士のような二人組が銃を肩にかけたままで、各部屋で入国手続きをしているようだった。

何分ほど待っただろうか、その二人がわたしたちの部屋の前にとまった。そして、パスポートをみせろという。写真と顔を照合、本人と確認すると、ソ連のビザを切り離した(ソ連のビザはスタンプではなく、切り離し式。だから、ソ連に行ったという痕跡はパスポートには残らない)。


これで入国手続きは完了かとおもいきや、

「新聞は持っていないか?」
わたしは、成田で買った日経新聞を持っていたので、それを渡した。恐る恐るといった感じで。一人が新聞を手にし、ひとりはベットの寝台部分をはずし、懐中電灯で照らしはじめた。そして上段までベットの毛布のした、毛布をパンパンとたたく。そして、ちょうどドアの上の収納スペースを見始めた。

要は密輸がないかを見ているらしい。しかし、そんなもの、あるわけがない。もちろん、トランクの中も調べさせられた。

ふと、日経をうけとった兵士をみると、さかさに新聞をみている。それもさかさに持っている。逆だよ、それではと教えてやるとバツがわるそうに新聞をひっくり返した。

よくこれで国境が守れるもんだと思った。ふたりとも、見た目は20代の兵士のようだった。おそらく日本語じたい、初めてみたんじゃないか。旅行社の話だと、日本語の活字ものは別の場所に持っていき、検閲されると聞いていたが、そういうことはなかった。

その手続きが終わると、下車が許された。発車まで2時間近く時間があるという。

さっそく500メートルほど離れた場所にある駅舎に入った。両替のためだ。ロシアのルーブル紙幣を手にしないと、食堂車で今日から食事ができないからだ。

長い行列だったが、40分ほどで番がきた。年齢不詳のふたりの女性が、大きな電卓をたたきながら作業をおこなっていた。
なにがどうっていうんじゃないが、手際が悪い。

ただ、驚きだったのは、1万円札で両替えをして、おつりでかえってきたのが米国ドルだったこと。初めて手にする米国ドルが中ソ国境の街、ソ連のザバイカリスクとは冷戦最中でもあり、ある意味で、アメリカの大きさを実感させられた。

両替を終えて外に出る。荷物を車内においたままで不安であったが、そとの空気はひんやりとして、吸い込むと、シベリアの冷気が肺のすみずみまで行き渡るような感じがした。

すこしばかり歩くと、一緒になった日本人の女性Oさんが、スケッチブックを取り出して、スケッチをはじめていた。国境の写真撮影は厳禁だが、スケッチはいいのかなと思っていると、銃を肩にかけたソ連兵が近でいて、やめろと手でOさんのスケッチを制止した。

でもスケッチしたくなる気持ちはわかる。緑の平原が多少の高低をもちながら、どこまでも広がっている風景は、写真といわず、記録にというよりも記憶にとどめたくなる。

「残念でしたね」
「でも、この目に焼き付いた風景はけせないわ」

たしかに。

満州里、そしてソ連のザバイカリスクでつごう2。5時間停車かかったことになる。列車はゆっくりと進みはじめた。

いよいよ、シベリア鉄道である。


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